熊本地震を経験して

”おすすめしたいこと”でも紹介しておりますが、私は2015年10月に自宅を新築し、2016年4月に熊本地震を経験しました。
建築士としてではなく、ここは地震を経験した一人として、地震の際に何が起こったのか何を感じたかを記したいと思います。

4月14日

前震となった14日の夜、我が家は長女の一か月と甥っ子の誕生会をして普段より遅くなり、歯磨きをして寝ようとしていたところでした。私・夫・2歳になった息子・まだ首が座っていない一か月検診を終えたばかりの娘の4人で、リビングで手が届く範囲に座っていました。
そこにすごい音と共に大きな揺れがありました。
私がまず思ったのは隣に住む両親の心配です。築30年近い3階建ての木造住宅に住んでいます。
大変なことになったと思い、娘を夫の胸に渡し慌てて隣に走りました。
家も両親も無事でしたが、部屋は倒れたもので散乱していて、私はすぐに自宅へくるように呼びました。両親の自宅は危ない、私の自宅は大丈夫、と無意識に選択していました。
というのも、我が家は何も倒れていなかったからです。普通であれば外に避難しなければいけないのですが、自宅は地震前と何も変わらないし幼い子ども2人を連れて夜の外に出ていくという考えがありませんでした。
ただ、いつでも逃げられるように、そして上に何か載っている場所は怖いと思い2階がない部分の1階のリビングで過ごしました。
子ども達はすぐに寝ましたが私は怖くてほとんど眠れませんでした。
地震直後の室内の写真です。何も倒れていません。洗面台のボトルも倒れず立っていました。

 

4月15日

朝になっても余震が続き、小さな揺れには慣れてきましたが時折来る震度5の地震はとても恐怖でした。
しかし、停電もなく、水も出る、部屋はいつも通り、ということで普段に近い1日が始まりました。夫も父も仕事に行き、母も祖母の所に様子をみに出掛けましたので、私は2人の子どもと3人で家に閉じこもりました。
娘は母乳しか飲まない時期ですので私が母乳をあげられなくなると大変なことになると思い、常に手が届く範囲に寝せてました。大きな余震の時には3人で固まり地震が収まるのをジッと耐えていた記憶があります。
お昼になり、私は以前から予約していた産後ケアに行くことにしました。こんな地震の後にいくものか悩みましたが、中々予約が取れないため行けるなら行きたいという思いがあったからです。先生の家でも時々余震があり「昨日は怖かったですね早く余震おさまってほしいですね」と話していました。普段は箪笥の上に並べてある写真や人形がおろしてあり「確かに今は危ないな」とのんびり思った記憶があります。
帰り道にスーパーに寄りました。その時は普通にお店も営業していて水も並べてありましたが、我が家は水が出ていたし子ども達を連れていて余裕がなかったのでので「落ち着いたら買いだめしておこう」と通り過ぎました。今思うと暢気だなと反省しています。非日常があったばかりなのに、もうあんな非日常的なことは起こらないだろうとやっぱり楽観視していたのです。
無事に帰れて夕食を済ませ、子ども達を2階に寝せました。仕事から疲れ切った夫が帰ってきましたが、子ども達と離れているのが怖かったので私はなるべく2階にいました。両親は今日は家で寝たいといい、隣の家に帰っていきました。私も危ないよとは言いつつ、疲れたし家で寝たいのもわかるなと本当に暢気に考えていました。


4月16日

日付が変わっても余震は度々ありましたが、疲れたしもう寝ようと思っていたところにものすごい本震がきました。この揺れは昨日と同じだ怖い、と思い慌てて夫を呼びました。夫に子ども達をみててもらい、私はまた隣に走りました。「危ないからもううちにきて!」と叫びながら呼びましたが、両親も怖かったのでしょう、すでにこちらに向かっていました。
無事を喜び、親戚の安否を確認しながらも家の中をみましたが、やはり物も落ちたり倒れたりはしていません。ただし、冷蔵庫が水平に移動していました。停電し、水も止まりました。でも、家の中は大丈夫、ということで私達はなんと本震の夜に布団で寝たのです。丸一日地震の恐怖と戦い、夫は仕事で疲れ切っていたのでとにかく明日もあるから体力貯めないとと思い寝ました。
後で聞くと、本震の後に家にいた人はほとんどおらず、皆避難所か車中泊で不安な夜を過ごしていたそうです。

朝起きると、熊本は大変なことになっていました。前震も本震も最大震度は震度7となっていますが、実際感じた被害は本震の方がとても大きいものでした。
夫は相変わらず仕事に行きました。この時期は住宅会社で監督をしていましたので、建築途中の現場を確認したり被害に遭われた住宅の対応に追われたりと本当に大変な状態でした。とても不安で家に残ってほしいとは思いつつも、自分は安全な環境にいられるので無理は言えませんでした。
私は相変わらず家にこもりました。外で遊ばせるのも怖く、とにかく家が安全だと思っていたからです。
停電はすぐに復旧しましたが、断水とガスの湯沸かしが使えませんでした。水が出ない不安はありましたが、地震が起きた直後に貯めたものや、近所の井戸水で凌ぎながら、被害がなかった親戚に届けてもらったりでなんとかなりました。もし、家にいられない状態だったら、私は2人の子どもを連れて給水に並ばなくてはいけない状態でしたのでとても助かりました。湯沸かしは安全装置が働いたのかエラーになり初期状態に戻す対応をしたかったのですが、余震の中子ども達を家に残し一人で外の貯湯機で作業することがとても不安だったことを覚えています。結局初期化することができず一週間ほど使えませんでした。しかしガスコンロは使えたため、コンロでお湯を沸かし、小さなベビーバスで毎日子ども達をお風呂に入れてあげることができました。


食事は幸い冷蔵庫が機能していましたのでしばらく冷凍していたものを中心に使いました。またいつ停電になるかわからかなったため、常温のものはなるべくとっておき冷蔵庫の中のものを優先したのです。特にご飯があればなんとかなると思い、なるべく炊飯器を空にせず、おのぎりを作って保存しつつ炊飯し、3食分程のご飯は確保するようにしていました。同じように、ホームベーカリーでパンも焼きました。また、水を節約するため使い捨てのお皿を使いました。
お店は開いているところもあったようですが、コンビニでも一人3点まで、といった制限があるようでした。夫は被害が大きい熊本市周辺だけではなく、県内各地を回っていましたので、被害が少ない地域で普通に買い物をすることもできたようです。ただし、災害時に適したレトルトや即席めん、水などは離れていても県内では完売していたようでした。調理が必要な食材はほとんど問題なく手に入れることができましたが、我が家も、水が使えない冷蔵庫もいつとまるかわからない料理する余裕もないという状況で、あまり食材は購入していません。それでもいつもと同じような食事を地震直後からとることができ、恵まれた環境だったと思います。
このような環境でしたので、長男と同じ2歳の甥っ子も我が家に呼び一緒に生活をしました。住んでいたマンションは無事だったようですが、余震の間マンションで過ごすのは怖く車中泊するということでしたので、それよりは我が家の方がいいのではということで半ば強引に呼び寄せました。
そしてしばらく我が家は両親と甥っ子家族と一緒に過ごしました。

 

本震後

そのような状況で余震に耐え続けました。このような大きな地震を経験して初めて知ったのですが、地震が来る前には音がします。地下から、言い表しようのない地鳴りのような音がして数秒後に大きな揺れがきます。家がゆれる音もすごいです。そして外からは何かが落ちるようなぶつかるような音があちらこちらから聞こえます。しかし私の家の中は、家が揺れに耐えるような音がするだけで物がおちるような音がしないためそれだけでも不安は随分と軽い方だったと思いますが、それでも二度とあの音は聞きたくないと思っています。
我が家の断水は3日で解消されました。多くの地域でもインフラは一週間で回復していたようです。
私は、その後も二週間家に子ども達と家にこもりました。二週間経ってやっと余震が落ち着いてきたという感覚がありました。
地震後、初めて市内を車で走っていると地震の爪痕はとても凄まじいものでした。道路もガタガタで、埋設されている配管が無事ではなかったことが一目でわかるのです。この状況で一週間でインフラを回復させる日本の力はすごいなあと心から感心したのを覚えています。そして、あちこちで災害派遣の車をみかけました。日本中で熊本を支援してくれているんだととても嬉しく、長男と一緒に「ありがとう」と手を振っていたら笑顔で応えてくださったのが印象的でした。
また、私は今まで被災した方は避難所で過ごし支援をうける立場にあると思っていましたが、全く違うことを知りました。被災した方々にも仕事があり、避難している状況でも仕事にいかなければいけない、むしろ通常よりも災害時は大変であるということです。インフラ関係のお仕事の方はもちろん、どんな仕事でも仕事場を復旧させたり二次被害を防いだりお客様対応をしたりと日中は休んでいる暇がないのです。お仕事が休みになった方は、避難所などの対応を任されたりします。ボランティアの方も全国から来てくださいますが、地域を理解している地元の方の力も必要です。その状況で夜は避難所で休息もとりにくく、人目を気にされて車中泊される方も多いですが、快適とは言えません。
実際、夫も父も通常では考えられないような大変な仕事をして帰ってきましたので、家ではぐったりしていました。私達が避難所で過ごしていたら、2歳の長男は活発な時期でジッとできずでも一か月の子もいるため身動きできず、日中は周りの方々にお世話になり夜は夫に負担をかけ大変な状況だったと思います。熊本地震の時は、乳幼児がいる被災母子を隣県の宿泊施設に一時避難するという救済プロジェクトがありましたので、私は家が使えなければその一時避難を利用させていただいたと思います。しかし、初めての2人育児で、非常事態のあとで充分な準備がないまま慣れない地域で3人で過ごすということもなかなか大変な事だと思います。ですので、やはり地震のあとも家で過ごすことができたというのはとてもありがたいことでした。
同じように、介護が必要な方が家にいる場合も避難所で過ごすことも車中で過ごすことも難しいです。私の義母は義祖母を自宅で介護していましたが、避難所に行くという選択肢は全くなかったと言っていました。家の中も危ないことはわかっているけど、避難所では過ごせないというのです。確かに義祖母の日頃のようすからは、避難所はとても難しいと思います。前述したような乳幼児避難のような救済策があればと思いますが、避難所で過ごされている高齢者は乳幼児の比でない人数ですし、大変なのは皆一緒でどのような基準で優先するかなどと考えるとやはり難しいのかもしれません。

 

ですので、私は各家が強くなり、避難せず過ごせる家が増えてほしいと願っています。
自身で体験してわかりましたが、今の日本の耐震技術は素晴らしいです。古い家屋が倒壊している地域で、家具も瓶も何も倒れないという家が実現できます。
我が家のように子どもが産まれたばかりの時はもちろん、集団生活が難しい子どもの時も思春期の時も介護が必要な人が同居している時も長い目であれば色々な時期があると思います。そのような時に地震がくることは決して0ではありません。そして自宅で過ごせる人が増えれば、避難所で過ごす方々も負担が減っていくのではないでしょうか。


地震にあった時の地震保険もありますが、保険よりもまず新築の時に対応できることはする、その一つの選択肢として木造住宅の制震ダンパーはとても有効だと思います。

2022年06月02日